【食うだけで満足の国】五日間の休暇で何処へ行くべきかという悩み。

松尾スズキ「ニホン世界一周メシ」

No. 891(2019.04.15発行)
曜変天目 宇宙でござる!?
シンガポール・スリングの南国ぶりを思わず撮影。

恵比寿で食べるか、それともシンガポールまで行くか。

 去年の秋口くらいから、ずっと私はつまらない人間なのである。つまり休みなく遊びもせず働いてばかりいるからだ。仕事は楽しい。もちろん苦しいこともあるが、私は主に笑いを取り扱った仕事をしているので、仕事の中に「笑っていられる時間」ってものがある。これは普通ではない。普通でないのはおもしろい。しかし、傍から見れば、働いてばかりいて遊ばない人間ってものはつまらないに違いない。それにいいかげん疲れすぎて来た。つまらなくて疲れている人間ほど、魅力のないものはない。なので、来月に五日ほどできる休みには海外旅行にでも行きたい。どこがいいかなあ。S社長は共産主義の見納めだ、と、この間、キューバに行って来たようだ。キューバと言えば、ブエナビスタソシアルクラブ・・・。ラテン音楽は大好きだ。ラスベガスなんてのもいいかもしれない。

 しかし、と思うのである。海外旅行は基本、疲れる。私は、飛行機やトランジット、飛び交う外国語、というものに、劇的に体力を奪われてしまう人間だ。ましてやキューバやラスベガスは遠い。五日じゃ、くたびれ果てに行くようなものだ。遊びたい、と、休みたいを、同時に満足させてくれる国がいい。近場の韓国台湾やタイへはすでに行った。なんていうときに不意にシンガポールという言葉が頭をかすめるのだった。近そう。都会なのでホスピタリティが充実してそう。治安が良さそう。そして、皆が噂するのだ。飯がうまいと。やたらうまいと。うまくいえないが、なにもかもがちょうど良さそうなイメージがある。

 そんなわけで、S社長、アーバンママ、K担当と連れ立ち、予習も兼ねて、恵比寿駅近くの本格派シンガポールレストラン「新東記」へ。シンガポール政府観光局の第一号認定シンガポール料理店となった店とのこと。店のドアを開けると、中華や東南アジアのスパイスが混然一体となって鼻孔を刺激する。すでに期待と涎が止まらない。

 まず出て来たのは、ブラックソース入り大根餅卵炒め。これについては大いに語りたい。大根餅という言葉のなにか田舎のババアの手土産的なイメージに油断していたため、その洗練されたうまさに不意を突かれ、脳が震えた。なにこれ、もんのすごくうまい! まず、甘辛くとろみがついたブラックソース(シンガポールを代表する調味料とのこと)が、フワッと口の中でとろける卵と絡み合いながら口中を泳ぎ回る。大根餅もいるのだが、まだ、感じない。いや、餅はいる。大根はどこだ? なんて考えていると、最後の方で「僕もいたよ」ってな謙虚さでもって大根の香りをうっすら感じさせながら、するすると喉元に消えていく。そののど越し感。ああ、歯がなくても食える。横になりながらも食える。となれば、人生最後の食事はこれでいいかも、とすら脳裏をかすめたし、この連載で初めて「独り占めしたい!」とも思った。好きだ。ブラックソース入り大根餅卵炒め。料理名こそ、まったく覚えられる気がしないが。まったく関係ないが、このとき店内BGMで「マイアヒ」が流れた。その時の感情には非常にそくしていたが、この間、アーバンママのスナックに「マイアヒ」を延々歌い続ける客が来て、それはそれで、「想像を絶する大変さ」だったらしい。

 五香滷肉は、豚ひき肉を湯葉で巻いたのを揚げたものだ。これも、パリパリの湯葉とジューシーな肉が口中で溶けあい、至福であった。時々シャキシャキとした食感もあり、メニューを見るとクワイが混じっている。計算された食感はさすがである。

 予約が必要なチリクラブは、大皿にデカい蟹がオレンジのソースの中にドシャーッと置かれ、圧巻の見た目。ソースはトマトとチリベースのグレービー。多分、蟹味噌がその中にまき散らされている。スパイシーなソースだけでも酒の肴になるほどうまいが、これに揚げパンをつけて食べるとなおさらうまい。しかし、蟹の身。これにはいつも手先の不器用な私は手こずる。ペンチでくだいて、蟹用スプーンでほじくり返すのだが、熱いし、スリランカクラブはやたら硬いし、尖ってるところ多いし、ソースで手先や口元がべったべたになるし、その割に身の収穫はちょびっとだし、蟹や海老を前にすると、いつも「労多くして功少なし」のことわざが頭に浮かぶのだ。まあ、甲殻類アレルギーで、我々の「うまいうまい」を指をくわえて見ているしかない担当Kよりはましだが。

 にしても、その後食べたシンガポール国民食であるバクテという韓国のサムゲタンを思わせる、豚肉のスタミナスープといい、ココナッツミルクと海老のだし汁に浸かったラクサという麺といい、非常に満足した一夜となった。

「シンガポールの味、そのままですね」社長は言う。

 なら、と私は思った。

 行かなくていいかな! 食うだけで満足。そんな国があったっていいじゃないか。

 その後、熟考に熟考を重ね、五日の休み、どこに行くか、ようやく決めた。

 別府。

 いい! つまんないと思われようがいい! 疲れ切っているのだ、私は。ふん!

ラクサ

日本での人気も高いシンガポール・ヌードル。ココナッツミルクとエビの濃厚なだし、さらに秘伝のチリペーストが織り成す最高のスープに思わず夢中になってしまう。1,389円。

ブラックソース入り大根もち卵炒め

シンガポールでは「キャロットケーキ」と呼ばれ愛される大根餅。卵と一緒に炒めるのが代表的な屋台料理のスタイル。甘口のブラックソース味のほか、プレーンやチリ入りも。908円。

海南鶏飯

シンガポールの代表的料理の一つ。新東記では選び抜いた国産鶏もも肉を使用し、さらに専用のブラックソースなどソースはなんと3種類! 他店とは一線を画した逸品。1,167円。

食べるラー油ワンタン

たかがワンタンと侮るなかれ。豚肉がたっぷり入った大ぶりのワンタンはジューシーで食べ応え十分。ゴマ油と赤唐辛子で作られた自家製ラー油の香ばしさがぴったり。695円。

19世紀中国から渡ってきた労働者がシンガポールに持ち込んだといわれているバクテ。長時間煮込んでほろほろになったスペアリブの旨味と中華スパイスが疲れに効きそう。1,463円。

チリクラブ

シンガポール直送の巨大なスリランカクラブが豪華。トマトとチリペーストから作られた濃厚なグレービーソースがカニの旨味を際立たせ、焼きパンにもぴったり。6,500円〜。

五香滷肉

豚の挽き肉、エビ、クワイなどを湯葉で巻いて揚げた一品。素材の味が生かされた優しい味にホッとする。自家製調味料とのバランスも抜群で、クワイの食感がアクセントに。1,000円。

オタオタ(Fish)

エビとタラのすり身を、チリや様々なハーブ、香辛料と叩き合わせ、ココナッツミルクを加えバナナリーフで包み焼きに。手間ひまをかけたマレー料理は味の深度がすごい。445円。

新東記 恵比寿
恵比寿で14年。シンガポール政府観光局に認定された第1号のシンガポール料理店
東京都渋谷区恵比寿南1−18−12 竜王ビルⅡ 2F☎03・3713・2255。11時30分〜14時30分(土・日・祝〜15時)、17時30分〜23時。月曜休。https://www.sintongkee.jp/

MEMO
もともと東京で16年間マーケティングの仕事をしていたパトリシア・チアさん。日本には本物のシンガポール料理を食べられる店がないと気づき、2005年〈新東記〉を開店した。そのルーツは約80年前に海南島からシンガポールに渡りバオ(肉まん)や海南チキンライスを扱う料理店を営んでいた彼女の祖父。そのレシピを忠実に再現したメニューはシンガポール政府のお墨付きだ。大手町に2号店〈クラークキー〉もオープンした。

SUZUKI MATSUO

1962年福岡県生まれ。作家、演出家、俳優。今秋公開予定の映画と同名の小説、『108』が発売中。芥川賞候補作『もう「はい」としか言えない』ほか著書多数。メルマガ「松尾スズキの、のっぴきならない日常」配信中。https://www.mag2.com/m/0001333630.html

photo/
Shin-ichi Yokoyama
text/
アーバンのママ

本記事は雑誌BRUTUS891号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は891号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.891
曜変天目 宇宙でござる!?(2019.04.15発行)

関連記事