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曜変天目、はじめの一歩。 Q&Aで学ぶ基礎知識。

曜変天目宇宙でござる!?

No. 891(2019.04.15発行)
曜変天目 宇宙でござる!?
2009年杭州出土、曜変天目残片(見込)。使用痕はわずかしか見られず、比較的きれいな状態。器形やサイズ、高台の削り、胎土の質なども国宝3碗に近い。撮影:小林仁

曜変天目の名は聞いたことがあっても、世界に3碗しかないとか、作られたのは中国だけど残っているのは日本のみとか、いや中国で発見されたとか、真偽を判断しにくい情報が溢れている。そこで大阪市立東洋陶磁美術館の小林仁さんに、情報を整理していただいた。

Q1:曜変天目ってなんですか?

A:宋の建窯で焼かれた、斑文と光彩を持つ黒釉茶碗。

歴史の中で「曜変」の名を与えられてきた茶碗は3つだけではない。なるほど、見た目がキラキラしたものもあれば、錚々たる美術館の所蔵品もある。それらと、国宝の3碗は何が違うのか。「厳密に定義するなら、国宝に指定された曜変天目3碗に共通する条件すべてが揃わないと、曜変天目と言えない」と小林さん。「①宋時代の建窯(現在の福建省南平市建陽区水吉鎮)で作られた、最上質の黒釉茶碗。②碗の内部には釉薬の気泡の破裂痕からなる斑文(星文)があり、③その周囲を群青や紫など光の角度によって色合いを変える光彩(虹彩)が取り巻く。貴重な唐物(中国から舶載された文物)でどのように書院を飾るかを記した室町時代の秘伝書『君台観左右帳記』に、“地いかにもくろく、こきるり(瑠璃)、うすきるりのほし、ひたとあり。又、き色・白色・ごくうすきるりなどの色々まじりて、にしきのやうなるくすりもあり”と書かれた通りのものです」
 
一方「天目」の方は、曜変に限らず「ナントカ天目」という名を聞く。これは中国・浙江省の天目山にあった禅宗寺院に由来しており、ここへ鎌倉時代に留学した日本人僧たちが、当時一般的に使われていた喫茶用の碗を、天目山の茶碗という意味で「天目」と呼んだ。それが日本中国産の茶碗全体を指す言葉になっていったようだ。

焼き物に広く見られる「窯変」の語に、星・輝きを意味する「曜」の字を重ねた。

Q2:何がすごいの?

A:陶工たちの神業によって生まれたところです。

とにかく、簡単に焼けるものではない、と研究者陶芸家も口を揃える曜変天目。つまり何万個、何十万個に一つ、偶然が重なってできたものだから稀少価値があるのだろうか。「後に曜変天目を生み出すことになる、建窯の茶碗=建盞(盞は茶碗の意)は、黒く艶やかな釉薬が、当時の白っぽいお茶の色を引き立てるというので、まず北宋時代の皇帝や政治家を中心に愛好されます。さらに皇帝の意に適うものを、と建窯の陶工たちが研究を重ねる中で、南宋時代に油滴天目が生まれ、曜変が生まれた。単に“偶然できた”のではなく、よりよいものを追究する中で、創り出されたはずです」
 
だが中国に曜変天目は現存しないという。評価は高くなかったのか。「確かに、中国ではそれほど評価の高くないものが日本で珍重される、という例には事欠きません。例えば当館所蔵で国宝の《飛青磁花生》(元時代・龍泉窯)も、極端に言えば輸出用の大量生産品でした」。国宝だって、本場ではこのありさまだ。ところが2009年、かつて南宋時代に首都の置かれた杭州で、曜変天目の破片が発見された。「杭州から出た破片は、建盞として最高ランクのもの。それが南宋の宮廷で使われていたということは、作られた当時から、中国でも素晴らしいものと認められていたという、確かな証しです」

その稀少な茶碗が日本へ運ばれ、戦乱や天災をくぐり抜けて数百年守り伝えられた。

Q3:どこで作られたの?

A:おそらく建窯最高品質の製品を多く作った蘆花坪で。

ものの本には、曜変天目は建窯の蘆花坪で作られ……と見てきたように書いてある。だが冷静に考えてみれば、建窯ではいまだ曜変天目の破片は一片も見つかっていない。なのになぜ、制作地を「建窯の蘆花坪」とピンポイントで断言できるのか。「蘆花坪でも、曜変天目そのものの破片は出土していません。その代わり、油滴や光彩を呈する破片、また形状や高台の作りが、国宝の3碗とほぼ同様の、非常に上質な破片が複数発見されています。その技術力の高さから、宋時代に曜変天目を焼いたのもここだろう、と推測されています」と小林さん。あくまで仮説であって、確実な証拠は見つかっていないのか、と思いきや。「2016年に実施した、藤田美術館所蔵の国宝曜変天目茶碗の分析結果の成果などを総合すると、曜変天目が建窯で作られたことは間違いないと思います」。さらに「実は今、台北の國立故宮博物院との共同研究において、杭州から新たに出土した曜変天目の破片などの分析を行っており、今秋のシンポジウムで成果を発表する予定です。曜変天目の最大の特徴である斑文と光彩のメカニズムの解明を目指しています」と、新たな展開の予告が。顕微鏡、8Kカメラ、電子顕微鏡、蛍光X線分析など、現代の技術を駆使した精密な調査から、曜変天目の故郷が明らかになる日も、遠くないのかもしれない。

完器も破片も少ないのは、限られた焼成(窯炊き)でしか作れなかったから?

Q4:世界に3つしかないってホント?

A:はい。でも近年破片は見つかっています。

現在まで伝世する曜変天目は、日本の3碗のみで、中国に曜変天目は存在しないと、長い間考えられてきた。ところが2009年、南宋の都があった杭州市内の工事現場から出土したとされる曜変天目の破片は、全体の70%近くが残り、国宝3碗と同じ斑文や光彩も備えていた。「学術的な発掘ではなく、工事現場からの出土なので、一定の留保は必要ですが、出土地点は南宋王朝の迎賓館、あるいは皇妃の邸宅に当たる場所。さらに宮殿銘を刻した白磁や青磁など、宮廷用磁器の破片が一緒に見つかっていることから、曜変天目が南宋の宮廷文物だったと判明しました」。さらに17年、再び杭州で曜変天目の破片が出土。発掘場所は不明だが、完器の3分の1程度の大きさを残し、やはり曜変天目の特徴を備える。曜変天目が日本しか存在しないことから、中国では斑文や光彩を不吉として排除したのでは、という説もある。「ですが曜変天目が宮廷文物になるほど高い評価を受けていたのであれば、その説は当を失します。日本の曜変天目も、かつて南宋宮廷にあったものかもしれません」

2009年杭州出土、曜変天目残片(見込)。使用痕はわずかしか見られず、比較的きれいな状態。器形やサイズ、高台の削り、胎土の質なども国宝3碗に近い。撮影:小林仁

破片の出土地は浙江省杭州市。ほかの天目産地に比べ福建省の建窯は近い方。

Q5:曜変天目の仲間は?

A:日本で天目と呼ばれた茶碗にもいろいろありました。

冒頭に引用した『君台観左右帳記』には、曜変を筆頭に7種類の喫茶用の茶碗が紹介されている。曜変に次ぐ第2位に置かれるのが油滴。続いて建盞、烏盞、鼈盞、玳玻盞、天目となる。表面に銀色の油の粒を浮かべたような油滴は、南宋時代の建窯の、やはり技術力の高い窯で焼いたと考えられる。次に挙がる建盞とは、ここでは禾目天目のこと。黒釉に細い毛のような、銀色の筋の流れた様子を、中国では兎の毛に擬えて、「兎毫盞」と呼んだ。器形は国宝3碗のような、いわゆる天目形だけでなく、口を朝顔状に開いた笠形も。烏盞は建窯で焼かれた、烏の羽根のような漆黒の盞。玳玻盞・鼈盞は、南宋〜元時代に栄えた江西省の吉州窯で焼かれた。釉調が海亀の甲のように見えることからの名称で、型紙を使って文様を表したものを鼈盞(文様の違いで梅花天目、鸞天目、龍天目、文字天目など呼び分ける)、文様なしで鼈甲調の釉が掛けられたものを、玳玻盞とする。天目は「はいかつきを上とする也」とあり、福建省南平市の茶洋窯で焼かれた、灰を被ったような釉調の灰被天目などを指す。日本で天目の仲間とされたものは、ほかにも吉州窯の木の葉天目や華北地方の天目など唐物の中にも多数ある。そこから朝鮮半島産の高麗茶碗、日本産の和物茶碗と、喫茶の碗の幅は広がっていった。

唐物から和物へ至る茶碗の変遷は付録「会いに行ける名茶碗図鑑30」でチェック!

Q6:誰が、どうやって使っていたの?

A:宮廷での喫茶や禅院での儀式で使っていました。

曜変天目が作られたのはおそらく南宋時代だが、1世代前の北宋宮廷では、兎毫盞を最上とする建盞を用い、白茶(茶葉の日光を浴びない、白っぽい部分だけを集めた高級茶。抹茶として加工)を攪拌して飲んでいたことが、北宋の皇帝・徽宗の茶論書『大観茶論』などからわかっている。同時代の禅宗寺院でも、特別な儀式の中で、あるいは毎日の生活の節目を画するために、喫茶が行われた。それが禅宗の移入とともに、まず禅院の什器として、そして茶の飲み方が変化し、使われなくなった建盞が古物として日本へもたらされた。「博多遺跡の出土品が日本で見つかった天目の最初。日明貿易の史料には、永楽帝が3代将軍足利義満に建盞10碗を下賜した、という記事も見えます。もしかしたらその中に、曜変天目があったかもしれない。なぜならその後、後花園天皇が6代将軍義教の邸宅(室町殿)へ行幸した、いわゆる“室町殿行幸”の際に、“曜変御建盞”を献上したと当時の公家の日記にあるからです」
 
この話には後日談があって、義教の子、義政が後花園天皇(当時は上皇)に曜変天目を見せてほしいと頼んだところ、天皇からの返答は「質草として貸出中」。『君台観左右帳記』は、曜変天目を1万疋(絹織物で換算)の価値とするが、もしかすると質入れの査定額だったのか、と想像したくなる。

京都の建仁寺では、現在でも栄西禅師の降誕会に「四頭茶会」の茶礼を行う。

Q7:4碗目はもう出てこないの?

A:可能性はゼロではない。第4の伝世曜変出現に期待。

小林さん、同席していた館長の出川哲朗さんと顔を見合わせ、うーん、と首を捻る。「建窯全体で見れば、あれだけ膨大に作ったのに、曜変天目が中国に残っていないのはやはり不思議です」と出川館長。小林さんは「学術的に検討する以前のレベルのものはともかく、中国で曜変らしき破片が出土したという情報はたまにあります。ですが中国では、いい状態の出土品が見つかることはあっても、伝世品はまず存在しないでしょう。台北の國立故宮博物院ですら、伝世の建盞は1点しかないのですから。可能性があるとしたらやはり日本。特に今回のように、展覧会で曜変天目が大きな注目を集めることで、隠れていた作品が表に出てくるかもしれません」
 
いささかファンタジックすぎて訊くのが憚られるけれど、織田信長が所持していたと伝えられる、足利将軍家伝来の曜変天目は、いかがでしょう。本能寺の変で失われたとされますが、どこかに秘蔵されていたり……。「そう願いたいですね(笑)」とアルカイックスマイルの小林さん。ほかにも、龍光院の曜変天目を所持していた豪商・天王寺屋が、曜変天目輸入の総元締で、国宝3碗はすべて天王寺屋経由だったのでは、とか、足利将軍家から天皇家へ献上されたものがどこかからひょっこり姿を現したり、とか、妄想はどこまでも膨らむのでした。

信長とともに本能寺の炎の中に失われた「4碗目」。心当たりの方はご連絡を。

Q8:中国では知られてないの?

A:むしろ中国での熱気を、日本人が知らないだけかも。

一昔前は日本での展示も稀だったため、中国では研究者でも、曜変天目を見た者は少なかったという。だが近年、中国での全国的な(中国)茶ブームや、「アイデンティティを託すべき古典としての宋文化」への憧憬が高揚しつつあることで、これまでも評価の高かった書画だけでなく、曜変天目をはじめとする建盞への関心が、非常に高まっている。「宋時代に目が向いているのは、お金持ちのインテリです。現代の作品について、今のところは日本陶芸家の方が、古いものに添おうという意識を持ち、宋時代の技術の再現を重視しているように思います。ですが中国では、数千人単位の陶芸家が猛烈な勢いで作っていますから、この先はどうなるかわからない。油滴天目はもう完全に再現可能で、光彩の表現も多様化しています。中には存命作家の作品で、1億円を超えるものも。その熱気を、日本人はまだ十分理解できていない。2017年、建陽区で建盞の博覧会が初めて開催されました。経済活性化政策の一大イベントでしたが、私もシンポジウムに招聘され、その熱気と活況に驚きました。今回の曜変天目の同時公開には、中国台湾からも大勢の観客が訪れるのではないでしょうか」。中国の人々の価値観の変化に伴い、日本に蓄積された文物、例えば曜変天目の見方も更新されようとしているのだ。

近郊の武夷山の銘茶(岩茶)と建盞との強力タッグ。第2回はより広い会場へ。

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教えてくれる人

大阪市立東洋陶磁美術館学芸課長代理
小林

illustration/
Mai Beppu
text/
Mari Hashimoto

本記事は雑誌BRUTUS891号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は891号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

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