音楽家と人類学者の時空を超えたぶらり旅。今回は板橋区・大山へ。昭和の風情漂う駅前商店街を中心にその町並みは、細野さんいわく「下町でも山の手でもない」。2人がなぜか惹かれるその背景に、江戸から続く長い宿場町としての歴史があった。
ジャンクションとしての 「板橋=タンジール」説。
- 細野晴臣
- 高校生の頃、毎日この東武東上線に乗って志木駅まで通ってたんだ。でも途中の駅で降りて遊んだりはしなかったな。最近になって、このへんに何だか面白い場所があると気がついた。何ていうか、下町でも山の手でもないような……。
- 細野
- そうか、「繋ぎ目」だ。このあたりはまだ活気があっていいね。
- 中沢
- 僕もジャンクションは好きですね。大都市でも田舎でもなくて、多様な人たちがいる。何で僕たち、そんな場所が好きなんだろうね?
- 細野
- 根に何かあるんだろうなあ。「ホーボー」的な何かが。色々なものが入り混じってるような、境界線みたいな場所が好きなんだよ。
- 中沢
- 『鬼平犯科帳』とかの捕物帳だと、群馬あたりから盗賊がこのへんへ出てきて……とかいう話がよくあるね。だから、周辺の商人宿には少々怪しいところも多かった。賭場があって、宿場のお女郎さんもいて。まああんまり立派な場所ではなかったのでしょうが。言ってみればモロッコのタンジールみたいなとこ。
- 細野
- そりゃかっこ良すぎる(笑)。
- 中沢
- 武蔵野台地の北西部には江戸時代以前から人が集まってたんですよ。黒曜石などの交易ルートでしたから。そういえば、細野さんは若い頃、さらに奥の狭山に住んでましたよね、米軍基地の近くに。今度出た新しいアルバムは、当時の作品をセルフカバーしたものだとか。
- 細野
- そう、45年前のね。だけど、その頃に見ていた風景はもうあまり思い出せなかったな。アルバムの中の「冬越え」という曲に、「今では僕は 田舎者」というフレーズがあるんだけど、どうしても馴染めなくて、歌詞を変えてしまった。当時は東京から狭山に移り住んで、本当にカントリーライフだったの。「毎朝
ニワトリ コケコッコー」という詞もあるけど、実際、鶏が鳴いてたんだ。でも田舎者なんて言葉は死語になったし、今の日本にはいないから。
- 細野
- そうね、16号線という感じ。
- 中沢
- 当時は僕もよく沖縄に出かけてたから、基地の街の雰囲気はわりあいよく知っています。コザの女の人たちにも親切にしてもらってました。優しい人たちだったなあ。当時、細野さんにとってはアメリカってどういう存在でしたか。
- 細野
- えっ? ……「妄想」かなあ。
- 中沢
- 反米意識なんかなかった?
- 細野
- 音楽でしか考えてない。今は政治的に嫌いな面もあるけど。とにかく文化的に洗脳された世代だからね。音楽からホットケーキまで。
- 中沢
- そう、複雑なんですよね。向こうのドラマの中で見たホットケーキ、旨そうだったもんなあ……。
あらゆる人々が行き交った「板橋宿」周辺の街。
HARUOMI HOSONO
- photo/
- Masaru Tatsuki
- text/
- Kosuke Ide
- edit/
- Naoko Yoshida
本記事は雑誌BRUTUS890号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は890号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。