人生仕事

我々は日本という国に、棄てられたんです。| なかにし礼

TOKYO80s

No. 890(2019.04.01発行)
花と花束。

なかにし礼(第二回/全四回)

終戦は紛れ込んで逃げた軍用列車の中。6歳の終わりの頃でした。そこで我々と関東軍の中国人兵士たちとの立場が逆転するわけです。今、天皇陛下がポツダム宣言を受諾して日本は負けたと。軍用列車には日本の軍人がたくさん乗っていましたが、彼らは武装解除されて連れていかれてしまった。我々もすべての荷物を取られてね。僕は子供でしたから、悔しいも悲しいもなかった。神風が吹くとも、日本が勝つとも思っていなかったので、特別な感情を抱くことはなかった。それよりも日本の軍人たちは銃や刀を持っているのに、なぜ、敵になった中国人が目の前にいるのに戦わないんだ? と、不思議でした。なんとも情けない日本軍人の姿を見て落胆の気持ちが大きかったです。やっとのことでハルビンの避難民収容所に着いたら、離れ離れになっていた父親と再会しました。父親は新京であった酒造組合の理事会に出ていたため、母親が「待っていたら死んでしまう」と、全財産を従業員に分け与えて自由にして、身ぐるみ一つで逃げたんです。ですが父親はソ連軍の男狩り、強制労働に連れていかれてしまい、また別れてしまいました。ハルビンに着いた時には家や財産、事業にかけたお金、すべてがなくなっていました。収容所にいても、冬が近づくハルビンの気温は零下35~40℃。与えられる毛布1枚と1日2回の高粱粥では死んでしまうと、アパートを探して商売を始めました。それまで大奥様であったお袋も、お嬢さんだった姉も、箱を抱えてタバコを売る生活を始めたわけです。でもうちのお袋はしっかりしていたので、嘆き悲しむことはせず、次から次へと行動して生活基盤を作った。それは偉かったと思います。引き揚げというのはね、国がやったわけではないんですよ。我々は外務省の通達によって棄てられたんです。「棄民」というんですがね。中国人だらけの場所に日本人約100万人がいて。生きるも死ぬも勝手にしてくれ、というのをやったのが、日本という国なんです。だから、僕の国というものに対する疑念は、その時に刷り込まれたんです。日本に帰ってきた僕たちに対する日本人の感情は非常に冷淡なものでした。大変な時代だったからというのもありますが、「よく帰ってきたね」なんて誰も言いませんからね。日本人ってね、不思議な国というか変な国ですよね。本当に、心からそう思っています。(続く)

なかにし・れい

1938年生まれ。作家、作詞家。近著に『芸能の不思議な力』。

第1回第2回第3回第4回

PHOTO/
SHINGO WAKAGI
TEXT/
KUNICHI NOMURA
EDIT/
HITOSHI MATSUO

本記事は雑誌BRUTUS890号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は890号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

No.890
花と花束。(2019.04.01発行)

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