人生仕事

故郷は日本だとは言えないし、その感覚は全くない。| なかにし礼

TOKYO80s

No. 889(2019.03.15発行)
服があるのに、着たいものがない?

なかにし礼(第一回/全四回)

生まれは満州、牡丹江の造り酒屋です。兄弟は3人。満州時代というのは、こちら側が中国人の街に限られた日本人街地区を造って住んでいるわけですから、中国人がいないかっていうと、いるわけですね。ですから、そこを日本人が縦横無尽に駆け回って遊ぶなんてことはあり得ないわけです。危険と隣り合わせということでね。学校の行き帰りは中国人の付き人が付いていて、送り迎えをする。いわばよその国にいながら、自分の国だとは言っていますが、それは警察権力と軍事権力による話でね。周りに住んでいる中国人はただ不愉快な思いをしているわけです。日本人が来て威張っていて。その感情の中で暮らすわけですから、常に用心してなきゃならない。ですから、子供の頃、街を駆け回って友達と遊んだなんて経験はないんです。僕の人生をかいつまんで話すと最初が戦争体験でしょうね。それから戦後、日本へ引き揚げた体験。もう何一つ不自由のない、満州で2番目ぐらいの造り酒屋で、大変裕福な家でした。ビールも造っていたし、ガラス工場も旅館も経営していた。親父は大した功績を収めたわけです。お袋も、毎日着飾ってダンスホールへ行くような、成り上がりの満州で成功した事業家。彼らは昭和8(1933)年の終わりに満州に渡って、たちまち成功して昭和11年には満洲紳士録に名前が載るまでになった。そんな中、僕には終戦まで韓国人の乳母がいましてね。従業員にもいっぱい中国人がいました。我が家ではいっさい差別待遇をしないで、和気藹々とやっていたんです。食べ物は基本的には中国料理。コックはみんな中国人で、従業員が何十人もいて大食堂で食事をする。朝から水餃子を食べたりね。だから僕のソウルフード中国料理です。そうやって過ごした6歳まで、学校に上がって、夏休みになるまでは、何一つ不自由のない、ボンボン生活。僕は満州生まれですから、生まれ故郷は日本だとは言えないし、そういう感覚は全くない。今もないです、もちろん。大陸で生まれて、向こうの空気の中で、向こうの食べ物を食べて育ったということは、もうどうにもならない現実で、僕には選びようがない。ですから、僕が生まれて8年間暮らした大地というのは、これは僕のいろんな感受性の基本になっていると思いますね。その土台があって、『兄弟』『赤い月』、最近の『夜の歌』を書けたんだと思います。(続く)

なかにし・れい

1938年生まれ。作家、作詞家。近著に『芸能の不思議な力』。

第1回第2回第3回第4回

PHOTO/
SHINGO WAKAGI
TEXT/
KUNICHI NOMURA
EDIT/
HITOSHI MATSUO

本記事は雑誌BRUTUS889号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は889号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.889
服があるのに、着たいものがない?(2019.03.15発行)

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