読書の対象として国語辞典を挙げるのは少し反則気味かもしれない。しかし、文字と文章が書いてある以上、読むという楽しみ方があってもいいはず。今回、トークイベント『国語辞典ナイト』を不定期に開催する4人の辞書好きが、国語辞典の魅力について語る。
- 西村まさゆき
- そもそも国語辞典がいつからあるのという疑問はありますね。
- 稲川智樹
- 近代的国語辞典は大槻文彦(1847〜1928)の『言海』(1889〜1891年刊行)から始まったといわれていますね。
- 飯間浩明
- 江戸時代以前にも辞書はあったんですけども、とうてい国語辞典と呼べるものではなかったんです。今でも「字引」という言葉がありますが、とにかく字が引けりゃよかった。
- 見坊行徳
- ものを書く時に、わからない漢字を調べるための辞書が、江戸時代に流行っていた辞書で、言葉の意味などは主ではなかったんです。
- 西村
- 今、私たちが使っている国語辞典のように、五十音順なり、いろは順なりで順番に言葉が並べてあり、その意味が書いてある国語辞典は言海から、ということですね。
- 飯間
- 大槻文彦が、すべての娯楽を犠牲にして家にこもり、たまに出かけて汽車に乗れば、田舎人の使う言葉に耳をそばだて「今の言葉はなんじゃ」と問い質し、十数年かけて1人で執筆したんです。
- 西村
- 『舟を編む』という映画でも似たようなシーンがあったなあ。
- 飯間
- 辞書作りというのは昔からそうだったんですね。
- 西村
- 言海の語釈で有名なのはなんでしょうか。
- 稲川
- 「温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ、然レドモ、竊盜(窃盗)ノ性アリ」という「猫」の語釈は有名ですね。これを読んだ芥川龍之介が「猫に窃盗の性ありというのなら、犬は風俗壊乱の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫の性ありで、著者の大槻文彦先生は鳥獣魚貝に対する誹謗の性ありだ」と面白がってツッコんでる、つまり「辞書に人格を見出して、読んで楽しむ」というのは、芥川の時代から脈々としてあるんです。
- 飯間
- ただ、猫に窃盗の性がある、というのは、大槻文彦の意見ではなくて、今でも「お魚くわえたドラ猫」なんて言うわけでしょう。「猫」という言葉にはそういうイメージがあると書いている。言葉が持つニュアンスやイメージを書くというのは、今の国語辞典にも繋がる大切な要素の一つです。
- 西村
- 猫の説明で「ネコ科の哺乳類でうんぬん」と百科事典のような語釈を書くのではなく、猫という言葉が持つイメージを記述するということですね。
三省堂のツートップ『三国』 『新明解』、それぞれの特徴。
- 西村
- ところで言海以後にもいろいろと国語辞典は出てきますが、エポックメイキング的な辞書といえば『三省堂国語辞典』(三国)と『新明解国語辞典』(新明解)でしょうか。
- 飯間
- エポックメイキングでもあり、辞書界の大スキャンダル事件でもある。
- 西村
- 三省堂という1つの会社から、なぜ「一般向け」の市場がもろに被っている辞書が2つも出ているのか。
- 飯間
- 話は戦争中まで遡ります。三省堂から出ていた『明解国語辞典』という辞書がありまして、その編集を協力して行っていた大学院生がいるわけです、それが見坊豪紀(1914〜1992)と、山田忠雄(1916〜1996)の2人です。ちなみに見坊豪紀は見坊さんのおじいさんですね。
- 西村
- 成立に因縁のある2つの辞書ですが、どんな特徴があるんでしょう。
- 飯間
- 当事者が言うのもなんですが、三国は「要するに」がわかる辞書なんです。言海の話とも繋がってきますが。
- 西村
- 僕が好きなのはカピバラの語釈ですね。「ねむそうな目と、間のびした鼻の下をもつ」というやつ。「要するに」がわかる。これは、実際に動物園に足を運んでカピバラを観察しないとなかなか書けないですよ。
- 稲川
- 語釈の書き方もさることながら、最も本領を発揮しているのが、膨大な量の用例採集(辞書に載せる言葉を集める作業)の結果、ほかの辞書に載ってないような言葉をたくさん拾っているところです。例えば「ディスる」みたいな言葉まで載っている。
- 飯間
- 紙版の辞書で「ディスる」が載っているのは非常に少ない。
- 西村
- 一方の新明解はどうでしょう。
- 飯間
- 辞書によっては、ネット発の言葉でも一般化しているのなら載せましょうという辞書もある一方、逆に言葉の選定が保守的な辞書もあって、新明解は後者の方です。
- 見坊
- 新明解らしい語釈「読書」はどうですか?
- 西村
- 長いのではしょりますが「一時現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり人生観を確固不動のものたらしめたりするために、本を読むこと。(寝ころがって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは、本来の読書には含まれない)」ってなんだか、人生訓みたいだな。
- 稲川
- 面白いですね。さっき言った芥川と言海のように、新明解は「読んで面白がられる」ということをよくやられた辞書で、赤瀬川原平の『新解さんの謎』などで「辞書を読むという楽しみがある」ということが知られるきっかけとなった辞書です。
- 飯間
- 辞書って面白いんだよ、ということを知らしめたという意味で、新明解は偉大な辞書です。
- 稲川
- 一方で、面白い辞書は新明解で、ほかは普通、というイメージを作ってしまったという感は否めません。
- 西村
- さっきの三国のカピバラだって、十分面白いと思いますけども、つまり、国語辞典は1冊だけ持って満足してはいけない。複数持って読み比べすると本当の面白さがわかってくるということですね。
キングオブ国語辞典『広辞苑』 はなぜ“よられがち”なのか。
- 西村
- 国語辞典といって、ぱっと『広辞苑』を思い浮かべる人も多いかもしれません。広辞苑とその他の国語辞典は何が違うのでしょう。
- 飯間
- いろいろありますが、まずは規模が違うというのが一つあります。7万〜8万語を収録した三国や新明解のような辞書に比べて、広辞苑は約25万語を収録しています。あとは……そうですね「なつかしい」を広辞苑で引いて一番最初に書いてある語釈を読んでもらえますか。
- 西村
- 「なつかしい ①そばについていたい。親しみがもてる」。今のなつかしいの意味ではないですね、今の意味は「④思い出されてしたわしい」でしょうか、一番後ろですね。
- 飯間
- ①の語釈は、万葉集で使われている意味なんです。広辞苑は、こういうふうに、言葉がどう使われてきたのかの歴史に重きを置いているんです。
- 稲川
- 広辞苑はこういうことを知ってないとちょっと使いづらいんです。しかもその古い意味が、今でも使われるかどうかわかる情報もないんです。
- 見坊
- いけずな辞書ですね。
- 西村
- その割に、なんかあるっていうと、すぐに「広辞苑によると」って引用されますよね。
- 見坊
- そうですね、広辞苑がなぜこんなに言葉の拠りどころにされているのか。もととなる『辞苑』(博文館)という辞書があったのですが、その流れを受けて作られた広辞苑の初版(1955年刊行)は、発売当時、画期的なものであったのは確かなんです。まず、国語項目に加えて百科項目といわれる固有名詞の収録を強化した。百科事典としても使えるというのが便利だったんです。あとは単純に「岩波書店が出した」というのが当時の人には受けた。岩波書店は今でも一大ブランドですが、当時はさらにすごかった。岩波から出たといえば後光が差して見えたはずです。
- 飯間
- それから、戦後すぐに仮名遣いや漢字の表記が変わったということがあって、言葉や国語に関する関心は非常に高い時期だったんです。そこに、辞書のラスボス、最終兵器みたいな広辞苑が登場したわけです。
- 西村
- そういった経緯があって、今の国語辞典といえば広辞苑というイメージが出来上がったんですね。
言葉の背景を知るのに便利な 『岩波国語辞典』の▽とは何か。
- 西村
- 今日はいろいろ辞書を持ってきましたが、それぞれの辞書の特徴を見ていきましょうか。まずは『岩波国語辞典』(岩波)はどうでしょう。
- 見坊
- 新しい言葉には塩対応ですね。
- 飯間
- 例えば「臥煙(火消しのこと)」なんて古い言葉も載ってる。
- 稲川
- 実はグーグルでわからない言葉と「意味」で検索すると表示される語釈は岩波の語釈なんです。ただ、ポイントは下向き三角(▽)で書いてある補注で、岩波はこれが本領なんです。これを読むと言葉の背景がよくわかる。
- 見坊
- グーグルで検索した時はこの補注が基本的には出ないんです。買った辞書だけの特典ですね。
- 飯間
- 「るんるん」の補注を見ると「▽テレビアニメ『花の子ルンルン』(一九七九〜八〇年放映)からの造語」
なんてことが書いてある。
- 稲川
- ほかの辞書ではこういうことがわかりません。
- 飯間
- 実は「るんるん」は、このアニメ以前より用例はあるので、疑わしいのですが、それを含めて情報が載っているのは貴重です。
- 西村
- 『明鏡国語辞典』(明鏡)は?
- 飯間
- 明鏡は、初版が2002年で、後発の新しい国語辞典ですが……ポイントはなんですか、西村さん。
- 西村
- え、なんだろう、言葉の誤用をはっきりさせている?
- 飯間
- そうですね。「御中」なんかを見ると「『◯◯様御中』は誤り。『×営業部様御中→◯営業部御中』」と書いてあり、非常に教育的。ただ、それがちょっと行きすぎちゃうところがある。
- 稲川
- 「足元を掬われる」は間違いで「足を掬われる」が正しい、といったような指摘ですね。「足元」は地面のことだから足を掬われるが正しい、という理屈ですが「足元に猫がじゃれつく」なんて言いますから、別にどっちでもいいんです。
- 飯間
- 私個人の感想としては、細かい誤用の指摘は、言葉が窮屈なものになってしまうのではないかと心配してしまうわけです。
- 稲川
- 誤用の指摘は構わないのですが、ユーザーが、これだけを参考にするとダメなんです。明鏡では誤用とされていても、ほかの辞書では誤用とはなってないこともある。複数の辞書を比べて自分で判断する方がいい。だから、辞書は複数持つべきなんです。
意味を知っている言葉こそ、 国語辞典で調べるべき。
- 稲川
- 先日出た『三省堂現代新国語辞典』は「マウント(人を屈服させる意味)」や「沼(趣味にハマる意味)」「草(笑いの意味)」といった、主にネット上で使われる俗語を大量に収録したことで話題になりましたが、それに対して、新しい俗語を収録してけしからんといった反応もありました。しかしそうではなく、国語辞典はどんな言葉でも載せたうえで、公の場所では使うべき言葉ではないよ、という注釈をつけた方がいい。だから、そういう言葉も載せる意味があるんです。
- 飯間
- そこはね、辞書に対する一般の人の大きな誤解です。辞書に載った言葉は「公認された言葉」、載ってない言葉は「悪い言葉」と考える人がいますが、それは違うんです。辞書は現代の言葉の地図ですから、実際の地図で「さいたま市」はひらがなでふざけてるから載せないとかは、あり得ないでしょ。同じように国語辞典は「今の日本語はこうなってますよ」と示すのが役割。だから、若者の言葉でもある程度広まっていれば、載せるのが正しい。媚びているわけじゃないんです。
- 西村
- 以前、飯間先生がおっしゃっていた「知っている言葉こそ辞書で引くべき」という話を聞いて以来、知っている言葉でも辞書でなるべく引くようにしてるんです。間違って覚えてる言葉に気づくこともあれば、別の言い方を知れたりする。辞書で知らない言葉だけ調べるのはもったいないですね。
- 飯間
- 前に「家でパソコンを利用する」と書いた文章を見て、変だと思ったことがあって。利用も使用も意味は知っている。でも実はよく知らない。例えば駅のトイレは「利用する」と言うことが多いですけど、使っている時は「使用中」と言う。こういった意味の違いを調べるためにもぜひ、知っている言葉こそ辞書で引いてほしいですね。
『三省堂国語辞典』
三省堂の名を冠した国語辞典。「要するに何か」がわかる簡潔で易しい語釈と、膨大な用例採集を基に、ほかの辞書に載ってない「キャスト(従業員の意味)」など比較的新しい用法の言葉も積極的に採録。編集委員の飯間さんは一部挿絵も担当。三省堂/2,900円。
『新明解国語辞典』
「面白国語辞典」として世間に喧伝されがちだが、編集方針は保守的で骨太。新語や新用法を採録するより言葉の持つイメージを丁寧に解説。「馬鹿」の語釈では「親近感を込めて何らかの批判をする際」など様々な状況を想定した使い方を掲載。三省堂/3,000円。
『三省堂現代新国語辞典』
高校生向け国語辞典として発行。2018年10月に第6版が発売。「沼」「ぽちる」などのネット用語を多く採録し話題に。「散りばめる(本来は『鏤める』)」や「役不足」に「力不足」という意味を認めるなど、誤用の表示を外した言葉も。三省堂/2,800円。
『岩波国語辞典』
序文で「新語・俗用にはかなり保守的な態度となる」と宣言するほど、新しい言葉には塩対応。ただし「立ち上げる」「コピペ」などのコンピューター用語や「追い抜かす」といった新語も採録。▽の補足説明だけ拾い読みするファンも多い。岩波書店/3,000円。
『明鏡国語辞典』
2002年初版。後発の弱みを逆手にとり、ほかの辞書ではあまり取り上げない「巨乳」といった性俗語も積極的に採録。誤用については別冊付録を付け解説する力の入れよう。本文でも「采配を振るう」は×、「采配を振る」は◯など。大修館書店/2,900円。
『新選国語辞典』
小学館の一般向け辞書。漢字に強く、総画数から検索できる索引が付くなど、ちょっとした漢和辞典並みの機能を有する。また「遊び人」や「宇宙人」という時の人(にん)と人(じん)の使い分け(造語成分)の解説などはほかの辞書にない特徴。小学館/2,600円。
『広辞苑』
折に触れて“よられる”ことで有名。収録語数20万語クラスの中型辞書で唯一、紙版をメインに改訂。言葉の意味を古いものから順に記すなど、普通の辞書とは使い勝手が違うクセがあり、それを承知で使用しなければ使いづらいところも。岩波書店/9,000円。
小学館日本語新辞典
トイレを「利用する」と「使用する」の違いなど類語の疑問に答えてくれる。収録語数は63,000と少ないが、1項目あたり平均100文字前後(一般の辞書は平均60文字程度)を使って詳しく解説。収録語数の多さは辞書の良さとイコールではない。小学館/6,000円。
『現代国語例解辞典』
日本最大の国語辞典『日本国語大辞典』を母体として編まれた。この辞書も類義語の使い分けに詳しいのが特徴。さらに「ざっくり」と「ザックリ」の使用頻度など、コーパス(言葉のデータベース)を基に集計したコラムなどの読み物も。小学館/2,900円。
『てにをは辞典』
ある言葉と一緒に現れる言葉を列挙。試しに「つきとめる」を引くと「相手を。アジトを。アパートを。……」と、ひたすら言葉が並ぶ。言い回しが自然かの確認にも、引いた言葉からイメージを膨らますブレインストーミングにも使える。三省堂/3,800円。
『現代語古語類語辞典』
現代語で言葉を引くと、昔はどう言ったかがわかる。自分で古文を書きたい時に使えるが、それ以外にも「作る」を調べて「こしらえる」などの言い換え表現を探す時などにも役立つ。『現代語から古語を引く辞典』という書名が改訂で改題。三省堂/5,800円。
Yukinori Kembo
Tomoki Inagawa
Hiroaki Iima
- photo /
- Natsumi Kakuto
- text/
- Masayuki Nishimura
- edit/
- Asuka Ochi
本記事は雑誌BRUTUS884号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は884号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。