エンターテインメント

村上春樹『風の歌を聴け』の僕、鼠、女

星野概念「登場人物を精神医学で診る 本の診断室」

No. 883(2018.12.01発行)
Mid-Century in Our Life

主治医:星野概念

名前:村上春樹『風の歌を聴け』の僕、鼠、女

症状:秋が近づくと、いつも鼠の心は少しずつ落ち込んでいった。カウンターに座ってぼんやりと本を眺め、僕が何を話しかけても気の無さそうなとおりいっぺんの答えを返すだけだった。

備考:海辺の街に帰省した僕と鼠と女の子とが過ごした1970年の夏。ビールと音楽と文学のある青春の一片。群像新人賞を受賞した著者デビュー作。講談社文庫/450円。

診断結果:通奏低音のように存在する、見えない灰色のようなもの。

「僕」は29歳。大学4年の夏に帰省した地元での18日間を回想します。日々バーに通い、友人の「鼠」とビールを飲みながら過ごしていた「僕」は、ある時バーのトイレで左手の指が4本の女を介抱し、女の家に泊まります。何かされたと勘違いした女は「僕」を遠ざけますが後日、女が働くレコード屋で再会します。その後何度か会い、女はしばらく旅行に行くと言います。同じ頃、「鼠」は何かを悩んでいる様子。恋人のことを「僕」に相談しようとしてやめたり、実家が金持ちなのが苦痛とか小説を書きたいとか言いますが悩みの中核は掴めません。数日後、女から連絡。「僕」は一緒に寝ながら、旅行は嘘で中絶の手術をした、人をうまく愛せない、一人の時に誰かの声が聞こえるなどの話を聞き、女は最後に「お母さん」とつぶやいて「僕」の胸で眠ります。この小説では、このような日々が淡々と描かれる中で、人物たちの葛藤がところどころ顔を出します。明確な悩みというより、ひそかにずっとある重みのようなもの。こういった通奏低音のような心の重みは、社会で暮らす多くの人がどこかしらで抱えている気がします。色々な読み方をされる本作ですが、僕はそういった日常の真実味を感じました。自分のあまり言葉にならない辛さを時々は誰かにわかってほしいし、誰かのそれをわかりたい。たまに認識する自分のそんな気持ちを思い出しました。

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ほしの・がいねん/精神科医。音楽活動もさまざまに行う。いとうせいこうとの共著『ラブという薬』が発売中。

編集/
大池明日香

本記事は雑誌BRUTUS883号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は883号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.883
Mid-Century in Our Life(2018.12.01発行)

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