美しく、革新的で、時代を超えて愛される家具が次々に生まれた20世紀半ばのアメリカ。
デザイナーたちの活躍の背景には、戦争をはじめとする社会環境と、歴史の流れがあった。名作の誕生は、時代の必然でもあったに違いない。
1950年代前後のアメリカは、デザインを取り巻く環境に独特のものがあった。中でも重要なのは、45年に終結した第二次世界大戦だろう。戦勝国か敗戦国かにかかわらず、この戦争は世界中の国々に絶大なダメージをもたらした。しかし数少ない例外として、戦後すぐに勢いを回復したのが、本土が他国から直接攻撃されなかったアメリカだった。
戦時中のアメリカでは軍需関連産業が活気づき、新しい素材や技術の実用化が進んでいた。それらは戦後に革新的なデザインが生まれるきっかけになる。合板の3次元成形技術も、グラスファイバーで樹脂を強化するFRPも、共に戦時中に活用が進んだものだ。
戦争が終わると、アメリカには他国に先駆けて長期の好景気が到来する。多数の復員兵が帰国して、新しい住宅が必要になり、住宅関連設備の需要が高まった。ベビーブームも到来し、社会全体に楽観的な空気感が広がっていった。
こうした動きと並行して、産業界では大量生産が普及。20世紀初頭から、フォードはベルトコンベアを使った流れ作業で自動車を量産していたが、その傾向がより強まっていった。デザイナーのジョージ・ネルソンは、57年の来日時の講演でこう語っている。
「ハーマンミラー社は米国では大きい工場でも有名工場でもないが、ほとんどすべてオートメーションで行われている。……この10年間、私はハーマンミラー社を見てきたが、やはり手と機械が半々の状態から始められて現在にまで発展してきたのである」
職人たちの家具作りが工業化した時期と、ミッドセンチュリーのデザインが世の中に紹介された時期は、ほぼ一致する。すでに40年代前半、ナチスから逃れるようにヨーロッパの多くの芸術家や建築家たちがアメリカに渡ってきた状況もあった。クリエイティブの世界的な勢力図は、この20世紀の半ばに大きく変動していたのだ。
新しい製造技術、新しい購買層、そして新しい文化。新しいデザインが、そんな当時のアメリカに徐
々に広まったのは当然だろう。それまでアメリカでデザインというと表層的なスタイリングを指すことが多かったが、ヨーロッパと同じくモダニズムに根ざした本質的なデザインが、時代の象徴と見なされ始めた。本物のデザイナーたちが活躍する舞台は、こうして出来上がっていったのだ。
戦時中に発展した新技術を、誰よりも積極的にデザインに生かしたのはチャールズ&レイ・イームズだろう。特に合板を3次元曲面に成形する技術は、彼らが独自に取り組んで実用化に至ったものとして特別だ。チャールズとレイは、1941年にカリフォルニアに移り住み、自宅のアパートメントのゲストルームで成形用の機械を自作する。当初はこの機械で椅子を作ろうとしたが、ある医師の依頼により、戦争で負傷した兵士の脚の添え木(レッグスプリント)を成形合板で製造することになった。
デザイン界に輝く3人が それぞれに提示した革新。
レッグスプリントは軽量で快適であり、すぐに好評を博したが、イームズのその後の成形合板による家具に比べると見栄えがいいとはいえない。しかしこの時のノウハウの蓄積が、戦後すぐに発表されるLCWやDCMなどの合板製の椅子に生かされていった。
またイームズが椅子の座面のシェルに用いたFRPも、航空機の部品を製造していたゼニス社が持っていた技術を応用したものだ。FRPはグラスファイバーで強化したプラスチックで、成形合板を超える造形の自由度の高さと、耐久性や耐候性を兼ね備えていた。座面と金属製の脚部のジョイントには、成形合板の椅子と同様にゴム製のショックマウントを挟み、接着剤に電磁波を照射して硬化させる手法が採られた。ショックマウント自体も、飛行機の精密部品を振動から守るため使われたパーツを参考に、イームズが取り入れたものだった。
一方、技術や素材よりも、新しい概念を日常のデザインに取り入れようとしたのがジョージ・ネルソンだ。彼が〈ハーマンミラー〉のデザイナーとして初期に手がけた収納家具は、一定のサイズをもとに全体を構成するモジュール式。その手法は以前からあったが、住宅や仕事場の多様なシーンを想定し、あらゆる使い方に対応させる発想は、暮らしを一新する可能性を秘めていた。
この考え方は、57年に発表されるモジュール収納システムのCSSにも受け継がれる。CSSは32インチ間隔で床と天井にポールを渡し、その間にキャビネットやデスクなどを設置するものだ。当時のネルソンは、家具がいずれ住宅の一部になって単体としては存在しない「ノー・ファニチャー」の到来を予言していた。CSSには、建築と収納を一体化する思想が確かに息づいている。
アレキサンダー・ジラードは、イームズともネルソンとも異なる視点から、ミッドセンチュリーのデザインを革新する。それは色や柄の多様な鮮やかさで空間を彩ることだった。少年時代からクラフトに親しみ、後にサンタフェに暮らした彼は、そこからインスピレーションを積極的にデザインに生かす。彼の緻密な色彩計画は、見る人を直感的に楽しませるようにすみずみまで配慮されていた。
ミッドセンチュリー期のアメリカでは、いくつもの家具ブランドがしのぎを削り、それぞれに優れたデザイナーが関わった。〈ハーマンミラー〉がその中で存在感を得るには、ジラードの比類のないセンスが不可欠だった。52年に同社のテキスタイル部門のトップに就いた彼は、張り地のほかにショールームの空間などでも大きな役割を果たす。現地を訪れた日本人デザイナーの渡辺力は「インテリアデザインに関する限り、ネルソンもイームズをも遠く引き離している」とジラードを絶賛している。国も時代も超えて伝わる魅力は、ミッドセンチュリーデザインの新しい普遍性の証明だった。
「ミッドセンチュリー」3大巨匠
チャールズ&レイ・イームズ
・Charles and Ray Eames(イームズのプロダクトについて)
・広める人
ジョージ・ネルソン
・George Nelson(ネルソンのプロダクトについて)
・編集する人
アレキサンダー・ジラード
・Alexander Girard(ジラードのプロダクトについて)
・収集する人
- text/
- Takahiro Tsuchida
本記事は雑誌BRUTUS883号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は883号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。
