人生

僕は日活の1期生、一番の先輩なんだ。| 宍戸 錠

TOKYO 80s

No. 882(2018.11.15発行)
続・いまさら観てないとは言えない映画。

宍戸 錠(第二回/全四回)

終戦後も疎開先の宮城県刈田郡にいて、高校は白石高校へ。近くにトロッコが走るようなレールがあって、それが当時の東北本線。かなり急な坂をレールが走っていてさ、学校の帰り道は東北本線の汽車から飛び降りていたよ。すると2㎞ぐらい歩かないといけないところを、15mくらいで家に帰れたんだ(笑)。最初だけは転んだけど、慣れたら一度もケガはしなかった。運動神経が良かったんだな。高校の1年か2年の頃に演劇部に入って、女学生からは大モテだったよ。最初に演技に興味を持ったきっかけは紙芝居。自転車に乗ってよく観に行っていたね、面白かったんだ。大阪にいた頃は映画もよく観ていたね。最初に観たのは『類人猿』。母親が映画好きで、親父も好きだったな。そういえば親父が持っていた服は全部カッコ良くてさ、ハイカラだった。音楽も好きだったけど、家族みんな音痴でね(笑)。僕が日活に入った頃には、映画の主題歌と挿入歌を必ず歌わなきゃいけないという、法律みたいなものがあったんだよ(笑)。(石原)裕次郎と小林旭は歌もちゃんとできてたな。僕もレコードを出したけど一つも売れなかったな。僕は日活の1期生で一番の先輩だったけど(笑)。日活のニューフェイスに応募する前にね、僕は演劇を覚えたくて日大藝術学部の演劇科に入ったんだ。その前に早稲田の演劇も受けたけど、そっちは面接で落っこちたな。演技論が違ってね(笑)。日藝って、映画や演劇、美術など6つぐらい学科があってさ。俳優になるなら演技術を習わなきゃならないと思ったんだ。今は近代的みたいだけど、当時は江古田の校舎は汚かったな。演技の発表会は2回ほどやったけど、月謝は高いし、そのうち行かなくなりました。貧しい学生でしたし、その頃、親父は浅草の芸者のところに入り浸っていて、僕はそこの台所の横の2畳ぐらいの場所に住んで、食わせてもらってたんです。その頃、「よし、映画スターになってやる」と思いました。日活ニューフェイスの1期生募集を見た時に、「これっきゃないな」と思い、大学2年生の時に受けたんだけど、試験は大したもんじゃなかった。面接もあった気がするな。演技はなかった。8000人くらい受けて、受かったのは25人くらい。俺は受かると思ってたよ(笑)。たくさん受けたといっても、あの頃は映画俳優といえば面白がって誰も彼もが受けてたんだ。

(続く)

ししど・じょう

1933年生まれ。俳優。『拳銃は俺のパスポート』など出演作多数。

第1回第2回第3回第4回

PHOTO/
SHINGO WAKAGI
TEXT/
KUNICHI NOMURA
EDIT/
HITOSHI MATSUO

本記事は雑誌BRUTUS882号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は882号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

No.882
続・いまさら観てないとは言えない映画。(2018.11.15発行)

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