人生

大阪弁を使えと言われたら、今でも使えまっせ。| 宍戸 錠

TOKYO 80s

No. 881(2018.11.01発行)
札幌の正解

宍戸 錠(第一回/全四回)

親父は鉄鋼所の会社をやっていました。淀川の銀橋から歩いて行くと桜ノ宮公園があって。その近くに5階建てのビルを建てて、親父は仕事をしていました。僕は5人兄弟の4番目で、兄弟はみんな大阪生まれ。祖父が福島伊達郡の半分くらいの土地を持っていて、親父はその三男でした。英語を一生懸命習っていたから英語ができて、「これから日本では戦争が始まるに違いない」と、大阪へ行って鉄鋼所を始めたんです。親父の働いているビルの近くに陸軍師範学校があったことを覚えています。家は淀川の近くの3階建てで、3階が子供たちの遊び場でした。冒険心の強い僕は5歳の頃、淀川で溺れて死にかけたりしてさ。なんとかハスの葉っぱに捕まって助かったんだけどね。親父は鋼屋になって成功して、東京の滝野川、今の北区に1300坪くらいの家を建てた。いつも女中が2人いて、藪や池があって、築山が3つあった。とにかくものすごい金持ちになったんだ。あれがいけなかったね(笑)。僕は好奇心旺盛な子供で、親父の車に乗り込んで、なんかいじっていたらいきなり動きだしちゃった。「止まんないな、どうしようかな~」って。木にぶつけて止まって、必死で帰って、「お父さん、見てよ」って。「あーあ、ダメだよ。こういうことしちゃ」なんて言われてね(笑)。5歳までしか住んでなかったのに大阪の記憶が強くてね。大阪弁を使えと言われたら今でも使えまっせ(笑)。空襲の時、親父は鉄兜をかぶって一番下の子(俳優、故・郷鍈治)を抱いて桜ノ宮公園に逃げようとした。するとストーンと焼夷弾が落ちてきたんだけど、破裂しなかったの。その鉄兜のヘリに落ちたんですよ。それで人生が変わったんです。大阪は空襲で焼けました。東京の家は広くて、玄関も石畳で、池で遊ぶこともできたし、茶室もあった。その横に近所の人たちが入れるぐらいの防空壕があって、そこでみんなが助かった。その家も東京も大空襲で焼けてしまいましたけどね。その後、僕は集団疎開で宮城県へ。親父たちも家が空襲でやられる前に逃げようと、宮城県刈田郡白石町の斎川村にやってきました。そして親父たちと再会し、最初は8畳と6畳ぐらいの場所を借りました。そのあと、家を建てましたけどね。終戦も宮城です。小学校6年の頃、玉音放送を聴いて、涙ながらになんか言ってるなって思ったことは覚えています。
(続く)

ししど・じょう

1933年生まれ。俳優。『拳銃は俺のパスポート』など出演作多数。

第1回第2回第3回第4回

PHOTO/
SHINGO WAKAGI
TEXT/
KUNICHI NOMURA
EDIT/
HITOSHI MATSUO

本記事は雑誌BRUTUS881号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は881号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

No.881
札幌の正解(2018.11.01発行)

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