人生仕事

これからはテレビの時代、映画はもう終わりなんだ。|里見浩太朗

TOKYO80s

No. 879(2018.10.01発行)
心を開放する旅、本、音楽。
PHOTO / SHINGO WAKAGI

里見浩太朗(第三回/全四回)

 魚河岸で働きながらコロムビアレコードの先生の家に週1回通うことになりました。先生を紹介してくれたお嬢さんに「うちにも寄りなさいよ」と言われてね。その家は3姉妹で、男の僕を家族みたいに可愛がってくれました。ある日、東映から「試験があります」と手紙が届いて。「何これ⁉」と調べたら妹さんが応募していて、「へへっ、洒落 社会勉強 歌も好きだろうけど、顔も悪くないからさ」。それで東映ニューフェイスに受かっちゃった。魚河岸にいて、お嬢さんと出会った頃から里見浩太朗の人生が始まっていたように思います。京都に行った頃は映画界が一番儲かっていた時代。田舎の映画館だと人がいっぱいで扉が閉まらない。1年は52週で、東映は2本立て映画でしたから年間104本の映画を作る。舞台セットが約19セットあってフル稼働。最初の役は『上方演芸 底抜け捕物帖』。2本目は庄屋の息子役で主演の恋敵。3本目は『天狗街道』で、主役と同じクラスのチンピラ役。それで初めて里見浩太郎(1970年に現名に改名)という名前がついた。東映は映画『里見八犬伝』が馬鹿当たりして、赤字から黒字会社に。だから里見は縁起がいいぞとプロデューサーがつけたんです。実際に4本目で主役ですからね(笑)。最初の10年間は忙しくて。暇がない中、たまの休みには舞鶴に黒鯛を釣りに行ってました。東映の寮は祇園でバスを降りて、赤線の中を通って帰ると近道なんです。おばあちゃんがね、「お兄さん、いい子いるよ。寄っていかない?」。だけどね、金もないし(笑)。それからテレビの時代へ。最初は映画の人はみんなね、「テレビに出てください」という話があっても、紙芝居みたいなものの中で芝居をするのは嫌だ、という感覚でした。銭形平次の大川橋蔵さんもやりたくないと言ってね。マネージャーが「橋蔵くん、これからはテレビの時代だぞ、映画はもう終わりなんだ」と説得して、銭形平次を引き受けたんです。橋蔵さんはそれで888本を撮った。年間50本のテレビには12ヵ月かかる。並行して1ヵ月の舞台を3場所、東京、大阪、名古屋に行く。すると寝る間がない。日曜日も橋蔵さんだけは撮影してました。僕らも忙しかったけれど、大丈夫かな、とね。でもあの人は好きだったんですね、仕事が。僕も仕事は大好き。でも、橋蔵さんはもっと好きだったのかもしれません。(続く

里見浩太朗
さとみ・こうたろう/1936年生まれ。俳優。『水戸黄門』など、多数の時代劇に出演。

第1回第2回第3回第4回

photo/
SHINGO WAKAGI
text/
KUNICHI NOMURA
edit/
HITOSHI MATSUO

本記事は雑誌BRUTUS879号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は879号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

No.879
心を開放する旅、本、音楽。(2018.10.01発行)

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