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父親は、働きたくなきゃ働かない、わがままな人でした。|伊東四朗

TOKYO80s

No. 873(2018.07.02発行)
福岡の正解
PHOTO / SHINGO WAKAGI

伊東四朗(第一回/全四回)

 生まれは東京台東区、昔で言うと下谷区です。この間ふと急に思い立って、地下鉄に乗って上野広小路で降りて、御徒町公園から自分の生まれた場所を回ったんです。佐竹商店街を通って、竹町公園で女房に作ってもらったおむすびを食べて、竹町小学校(現在の平成小学校)を横目に見て、空襲で逃げ場だった西町を通って、久しぶりに西郷さんに会って、全1万1500歩(笑)。兄弟は5人で私は3男。みんな生まれたところが違うんです。その都度、家賃が払えなくて逃げてた一家でした。親父は洋服屋。働きたくなきゃ働かないわがままな父親で、そのくせ言うことだけは言う。子供心にも理不尽な父親でしたね。敷居を踏んで家に入るな、畳のヘリは踏んで歩くな、箸はきちっと持てと、よくぶたれました。今は良かったなと思います。今のドラマを見ると箸をちゃんと持てない人が多いですからね。お袋は親父と一緒に縫い物をしていました。よくぶたれてましたね、物差しで。今で言うDVですか。よく耐えていた母親だと思います。小さい頃は楽しい思い出しかないです。悲しかったのは腹いっぱいご飯が食べられなかった、白米が、ある時からなくなったことくらい。僕は適当な子供で、成績も悪い方でも良い方でもない。数学の嫌いな、国語の好きな生徒でした。台東区には7歳までいて、3月の大空襲で母方の実家のある静岡の掛川へ疎開。空襲のことはよく覚えてます。家族全員で手を繋いで、親父は洋服屋でしたからミシンだけ持って上野の山に逃げてましたね。よく東京のど真ん中で生きてたなって。毎日友達が1人欠け、2人欠け。無残な話ですけど、ある日、焼夷弾が電線に引っ掛かってたんですよ。空襲警報が解除されて、みんなが外へ出て行った途端にそれが落ちてきて、顔半分えぐられた人を見たんです。かわいそうだったなあ。脳裏に焼き付いてます。それから東京大空襲。もう、火が火を呼ぶんですよ。隅田川近辺の人は川に飛び込んで亡くなった人も多かったんじゃないですかね。理不尽だなと思います、無差別爆撃は。終戦は静岡で迎えました。町内の人が通りに集まって、石屋さんの石の上に誰かがラジオを置いて、詔勅を聞きました。私には全然わかりませんでしたけど、戦争が終わったことだけはわかりました。それよりいじめですよ。東京者というだけで、いじめの対象になるんですよね。(続く)

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伊東四朗
いとう・しろう/1937年生まれ。喜劇役者、たいとう観光大使、大間町応援団長。

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photo/
SHINGO WAKAGI
text/
KUNICHI NOMURA
edit/
HITOSHI MATSUO

本記事は雑誌BRUTUS873号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は873号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.873
福岡の正解(2018.07.02発行)

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