書籍・読書

吉村昭『少年の夏』の敏夫

星野概念「登場人物を精神医学で診る 本の診断室」

No. 852(2017.08.01発行)
とんかつ好き。

主治医:星野概念

名前:吉村昭『少年の夏』の敏夫

病状:父は、それらを一尾ずつつかむと池に投げた。鯉は身をくねらせながらたたきつけられるように水面に落ちた。

備考:クリエイティブディレクター佐藤雅彦が「面白い」を基準にセレクト。三浦哲郎の『とんかつ』ほか、12作品を収録。『教科書に載った小説』ポプラ文庫/680円。

診断結果:豹変する父。はねる鯉。悪夢のような、夏休みの記憶。

 真面目な敏夫の父の唯一の趣味は鯉。池を自作するなど、ただならぬ情熱を注ぎます。小学校低学年の敏夫と妹の照子は、池の水替えの時にだけ、父が大切にしている鯉とともに泳ぐのを許されていました。ある時、そんな敏夫たちを羨ましがって真似た隣家の幼子が父の池で溺死してしまいます。それをきっかけに、父は池をつぶす決断をし、丁寧に飼育していた鯉を、乱暴に公園の池に投げ入れます。敏夫は、豹変した父を見て、父に落ち度があったわけではないと考えますが、それを言えません。大切な鯉を失う深い辛さと、幼子の死という圧倒的な事実に挟まれた父の複雑な気持ちは、敏夫でも何となく感じられたのでしょう。ただ、心配なのは、自分の父が我を失う姿に直面すること自体が、小学生にとって衝撃的すぎるのではないかということです。敏夫はさらに、幼子の溺死の第一発見者でもあり、この一連の出来事が、「トラウマ体験」となる可能性があるのです。戦慄的な「トラウマ体験」は冷凍保存されるように、記憶の奥に残り続けます。例えば忘れた頃、居酒屋の生け簀ではねる魚を見たのがきっかけで、記憶が解凍され、突然不安などが生々しく蘇る「フラッシュバック」
を呈することも考えられます。もしそうなったら特殊な治療が必要になります。母や、物の分別がつく年齢になれば照子にも、念のためそれを伝えておきたいです。

ほしの・がいねん/精神科医。音楽活動もさまざまに行う。いとうせいこうとの共著『ラブという薬』が発売中。

edit/
大池明日香

本記事は雑誌BRUTUS852号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は852号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。

No.852
とんかつ好き。(2017.08.01発行)

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