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谷川俊太郎

TOKYO80s 真似できない人生訓。

No. 849(2017.06.15発行)
真似のできない人生訓。
コンクール入賞時の小澤征爾(右)を祝って。
映画監督の市川崑(右)と京都知恩院の山門前で。1967年9月撮影。

「詩を書くより金を稼ぐ方が大事だった。 だから、とにかく書くしかなかったんです」

一人っ子として何不自由なく育った学校嫌いの男の子。詩人が職業であるということを強く意識し、示したのが、谷川俊太郎だった。生まれたときから同じ土地に住む元祖シティボーイが、「生活が自分の詩の基盤になっているという立場なんです」と語るその人生には、詩人として生きていくための情熱が、冷静さの合間から見え隠れしていた。

 出身は杉並だけど、慶應病院で生まれました。帝王切開なんですが、それが自分に影響していると思い込んでいるところがあるんです。普通の分娩、狭い産道で苦労して出てこないで桃太郎さんみたいにパカッと生まれちゃったと。つまり、生誕の苦労がなかった(笑)。育ったのは今も住んでいる東京の杉並で、家は違いますけど、同じ土地です。子供の頃は虚弱児童でしたね。すぐ風邪をひいては熱を出して寝てるみたいな。幼稚園に行っても兄弟がいない一人っ子なものだから、同年輩の子と交わることが苦手で。幼稚園では一番美人の女の先生の膝にばっかり乗っかっていたらしいです(笑)。とにかく母親っ子でした。父親は哲学者で大学の教授でもあって。離れた自分の和室デスクの書斎でいつも仕事をしていて、あんまり交渉はなかったと言えばいいのかな。僕は母親には百パーセント愛されたっていう感じがしていて、それですごく生きていくのが楽だと、大人になってから思えました。だから今の幼児虐待なんて信じられないです。小学校に入ってからは、近所の子供が遊びに来て庭で遊んでました。それから模型作りとかね。だけど、親友みたいなものが欲しいっていう気持ちが全然なかった。一人遊びの方が好きでした。中学は今の豊多摩高校へ。もうその頃は配属将校がいて、軍事教練、木の銃を担いで行進させられたりして。僕は小さいくせに成績が良かったので、小隊長みたいな、一番前で号令なんかをかける役でね。そのへんからだんだん学校嫌いになったんじゃないかな。さらに中学2年の頃、敗戦前に京都の母の実家に疎開して、向こうの中学校で関西関東の文化の断絶に悩むわけ(笑)。国語の授業で普通に読むと、みんなげらげら笑う。アクセントがおかしいって。もう学校に行かないで、近くの桂川の岸辺をぶらぶら散歩してました。東京に帰ってからは敗戦後すぐだから教えることが、がらっと変わったわけ。なんか信用できなくてね、先生を。なのにまだ体罰がある。それが嫌でね。親に叩かれた経験がないから、そうなると窓から逃げ出したりして、だんだん不登校になったんです。それで、定時制に変わらないと高校卒業できないと(笑)。定時制は男女共学で、昼は商売しているから、オート三輪の自家用車で学校に通ってくるのもいてね。昼間よりもずっと面白かった。定時制はゆるかったからね、適当にやって一応、卒業はできました。

 学校嫌いで大学には行きたくなくて、父もどうしても行けと言わない人だったから、だらだら家でノートブックに詩を書いていたんですね。大学の先生の家だから本もいっぱいあって、それを適当に読んだり、音楽が好きでSPレコードでベートーヴェンを聴いたりして。でもね、僕、東大を受けているんですよ、ちゃんと。東大の受験はしているんです。格好だけ。それで誰よりも早く試験会場を出てくるんです。同じ会場にいた受験生はみんな脅威に感じていたと思う。実際は何も書いてないわけ。白紙。全部白紙。確信犯ですね。絶対に大学なんて行くもんか、という感じでした。そのうち、父親がどうする気だ? と言いだして、大学ノートに書き留めていた詩を見せたんですね。父は、若い頃詩を書いていたし文芸評論もしていた。小林秀雄さんとも知り合いで。だから割と詩がわかったらしくて、半分親バカで、良いと思ったんでしょうね(笑)。それを三好達治さんに見せて、三好さんが認めてくれて、『文學界』に載ったのが詩のスタートです。詩を書くきっかけは豊多摩高校に新聞部で活動している友達がいて。うちにある本を目的に遊びに来てたんですが、ガリ版で雑誌を出すから何か書かないかと誘われたんですね。僕は別に詩が好きでもなかったし、詩集もそんなに読んでなかったんだけど。書いてみたら、なんか詩みたいなものが書けるもんだから面白くなって。まあ、ずっと書いてノートに書き溜めていたっていう、そんな感じ。詩を読んで感銘を受けたとかではなく、模型を作るみたいな感覚だったのかな、言葉で世界の模型ができると。ほら、僕は割と幸運な生まれ育ちをしているから、なんか、恨みつらみがない。現代詩は割と恨みつらみが多いんです、自己表現として。そういうのを書かないで、外にある自分の気に入ったもののことを書いているのがちょっと新鮮だったんだと思います。いい詩を書こうとか、偉い詩人になろうとか一切なくて、ただ思春期はこれからどうやって食っていこうかってことに尽きていましたね(笑)。詩だけじゃ食えないのはわかっていたから、仕事はできるだけやろうと思って広げていった。結構現実的だったと思います。『文學界』に載ったときも全然ありがたみもわからなくて。父親が文筆業だったので雑誌に書くとか、本になるというのは当然のことだと思っていたわけ(笑)。だから自分の第1詩集『二十億光年の孤独』ができたときも、全然普通のことだと思っているから感激しない。損なんですよね(笑)。だから出版記念会をやろうって言われてもやる気がなくて断っちゃうし。ある意味でスロースターターだった感じがします、運が良かったからこそ。詩をちゃんとやらなきゃいけないとか、ちゃんと詩を読もうとか、ずいぶん後になって自覚されてきたっていう感じですよね。

 当時出ていた外国の詩人の翻訳とかは一応、読みましたよ。詩はどういうふうに書く、詩とは何かっていうのをね。でも、詩を書くよりも金を稼ぐ方が大事だった。自分は大学も出ていないし、手に職もないし、とにかく書くしかないと思って。その頃、女性週刊誌とかメディアが増えていた時代なんですよ。記録映画の脚本、子供の歌の作詞、ラジオドラマの脚本、できることは全部受けて。自分の書く範囲を広げて、とにかく生活費を稼いでいたというのが実感ですね。営業しないでもね、結構話が来るわけですよ。『鉄腕アトム』の作詞も手塚(治虫)さんが電話してくれて、受けました。たぶん僕の最初の詩集『二十億光年の孤独』って題名が、ちょっと宇宙っぽいから面白がってくれたのかなと思いますけど(笑)。市川崑さんなんか僕の詩なんて読んだこともなかったわけ。だけど東宝にいた脚本家が僕の詩を読んで推薦してくれたのね。それで市川さんは、海のものとも山のものともわからないけど、なんか詩人っていうのは面白いものを書くんじゃないかと、東京オリンピックの記録映画で一緒にやらせてくれたんじゃないかな。今のオリンピックと違って純粋なオリンピックでしたからね、こっちもノリましたよ、すごく。僕はスポーツ全然わからないけど、市川さんも全然わからない人でね。100m走って形の種目を、かけっこ、かけっこって言う。だからこっちもすごく気が楽で(笑)。いろいろ手がけたのでメディアの方が僕のことを詩人だけじゃなくて絵本作家、作詞家とかって書くんですが、僕はできるだけやめてくださいって頼んでいます。やっぱり詩人一本で通しています。映画のシナリオも芝居の本も、基本的に全部詩人として書いているっていうふうに考えているんですよ。だからジャンルが広がったのは、要するに生活費のためだと(笑)。ただ、現代詩の世界があまりにも閉鎖的なのでもっと広げていきたい、という気持ちはありました。一種の象牙の塔みたいになってたんですよ。今でもそうでしょう? 普通の人にはわからなくたっていいんだっていう。それで難しいフランスから輸入された哲学用語を使って批評し合うみたいなね。詩は文字以前からあったわけだから、基本的にはどんな人でも詩的なものを求めているはずなんです。自分の生活費のことも考えて、できるだけ多くの読者を持ちたいと、僕はずっと思ってました。

 日本語の詩っていう言葉は、一つは詩作品、いわゆるポエムで、もう一つはポエジー。詩情、詩の感じ。その両方が合わさっているんですね。だから誤解させたりもするんだけど、詩情っていうものがあれば、どんなジャンルに行こうとも、詩として成り立つと基本的には思っています。音楽にも映画にも絵画にも、ポエジーってものを感じることがあると思うんですよね。ほかのジャンルで仕事をする意味があるのだとしたら、自分の中のポエジーみたいなものが核にあることが、ほかの作家たちとは違うんじゃないかなと漠然と思っていました。違うジャンルでの最初の仕事は、同年代の作曲家の友達と子供の歌を書くこと。それから週刊誌のグラビアに詩を書け、みたいな話が来て。写真と詩の組み合わせ。ほかのものがある方が楽ですね。言葉が出てくるんですよ、刺激されて。詩を書くときはね、一生懸命、自分を空っぽにするんですよ。だから、言葉っていうのは、全然、自分の中には溜まってはいないと思うのね。それから外の言葉をいくら読んでも、いっぺん自分の意識下に沈殿してしまわないと、自分の言葉としては出てこない。僕、いわゆる詩的な言葉っていうのをほとんど使わないでしょ。普通の生活している言葉で書いているから、そういう点でも、あまり、言葉を自分の中に入れるっていう苦労はないですね。だから締め切りに遅れたこともない。締め切りの一月前にはできていないと嫌なんです。すごく臆病だからっていうのもあるけれど。

 1950年代だったと思うけど、新聞から頼まれて書いたら、新聞に詩を書くとは何事かって批評されたことがあります。新聞は、現代詩にはふさわしくないメディアだと思っていたんじゃないかな、みんな。詩はマスメディアに書くもんじゃないと。同人誌とかね、割とミニマルなメディアで発表するべきという考え方があったんだと思う。それが問題なんですね。僕はどんどん広げていこうとしてきましたから。ただ、今は逆です。ミニマルになった方がいい、現代詩は。詩集が売れないからですよ。小説に比べると全然売れない。CDが売れないのと似ているところがあってね。だから僕は、これからは詩は小商いだって言っているんです。そんなにたくさんの人数を巻き込まなくてもいい。書店も減ってきて、書店がカフェや雑貨屋さんになったりしているじゃないですか。Amazonが巨大なマーケットだとしたら、詩は書店に同調するような、小さいところで島みたいに存在すればいいんじゃないかなと。

 僕は本当に運のいい人生だったと思っています。同人雑誌で下積みして、すごい苦労して世に出るみたいなこともしないで、いきなりぽんと、商業的な文学雑誌に詩が載って。そこからポツポツと仕事が来て、特に苦労しないで注文を受けている間に、食えるようになったことも、詩人として運が良かった。大学の先生になったり、お勤めしたりして詩を書いている人が多かったんだけど。僕は曲がりなりにも筆一本で、今までやってこられたっていうのは。まあ、自分でももちろん努力はしていると思うんですけど、やっぱり運もついてたんじゃないかな。

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photo/
Shingo Wakagi
text/
Kunichi Nomura,Toshiya Muraoka, Akane Fujioka, Keiko Kamijo
edit/
Hitoshi Matsuo

本記事は雑誌BRUTUS849号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は849号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

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真似のできない人生訓。(2017.06.15発行)

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