人生仕事

占領政策で、昼間からチークダンスなんて可笑しいわ。|湯川れい子

TOKYO80s

No. 838(2016.12.15発行)
危険な読書

湯川れい子(第二回/全四回)

戦死した兄の影響は大きいです。昭和18(1943)年の6月ですが、出征前に3日間泥まみれになって防空壕を掘ってくれて。その間中、口笛を吹いていて、メロディを覚えちゃったんです。父が突然亡くなり、兄も戦死。私と母は米沢に疎開して、終戦後目黒の焼け残った家に帰りました。私は体が弱くてよく熱を出していました。本が好きで熱が下がってくると少女小説とかハイネとかリルケの詩集を読むので、母に「ぶり返すから駄目よ」と取り上げられて。ラジオを置かれて「音楽でも聴いていなさい」と。けれど、どこを探しても音楽なんてない。美空ひばりさんが出てきた頃で、あとは浪曲くらい。ダイヤルを回していたら突然溢れるようにジャズが流れてきました。米軍放送です。すると突然兄の口笛の曲が流れてきたんです。兄に「その曲は?」と聞いた時に「兄ちゃまが作った曲だよ」と言っていたのに。学校から帰って米軍放送をつけているとその曲がかかり、何回目かにやっと聴き取れて、ハリー・ジェームスの「スリーピー・ラグーン」という曲だとわかりました。ペリー・コモやドリス・デイ、フランク・シナトラも全盛ですし、好きな歌がいっぱい増えて。だから音楽のきっかけは兄なんです。高校2年の時に女優募集があって演劇の勉強もするようになりました。銀座の事務所に顔を出していたら、新人女優の仲間が夕方「ちょっと踊っていかない?」って。当時、マンボが大流行していました。石原慎太郎さんの『太陽の季節』が出た頃。金馬車というキャバレーが銀座にあって、夕方までダンスホールになるんです。不良もいいところですよね(笑)。テーブルで手持ち無沙汰で詩を書いたりしてたら、「踊らない?」って誘われて。東京キューバンボーイズが演奏していて、踊っているうちに突然チークタイム。いきなりチークダンスは嫌ですから、おしゃべりをすることに。私は恥ずかしくて「みんな昼間っからこんな末端神経をマヒさせるような占領政策のジャズで踊るなんて可笑しいわ」と言ったらその人はびっくりして「君はジャズを知らないの? ジャズはアフリカから奴隷として連れてこられた黒人たちが、血と汗と涙の中で生み出した、アメリカが生んだ唯一の芸術なんだよ」って。「本物のジャズを聴かせてあげる」と、有楽町駅前のバラックの1階にあった小さな喫茶店に連れていかれたんです。(続く)

ゆかわ・れいこ

1936年生まれ。音楽評論家、作詞家。

第1回第2回第3回第4回

PHOTO/
SHINGO WAKAGI
TEXT/
KUNICHI NOMURA
EDIT/
HITOSHI MATSUO

本記事は雑誌BRUTUS838号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は838号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.838
危険な読書(2016.12.15発行)

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