エンターテインメント

中島敦『山月記』の李徴

星野概念「登場人物を精神医学で診る 本の診断室」

No. 830(2016.08.16発行)
こんにちは、星野道夫。

主治医:星野概念

名前:中島敦『山月記』の李徴

病状:覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走っていた。

備考:中国の古典「人虎伝」を題材に、詩への執心と捨てきれぬ自尊心から、虎に変身してしまった男の運命を描く。1942年発表の短編で、著者代表作。新潮文庫/400円。

診断結果:畜生になっても、なお「虎」というプライド。

 今回勝手に診察するのは主人公の李徴さん。彼はエリート官僚コースを歩む美少年でしたが、その道を自ら絶ち、名を死後百年遺すべく詩人を志します。誰でも若い頃は「俺にはできる」という万能感や、「人とは違う特別な人間だ」という誇大的自己像を抱きがちですが、現実が伴わず、生活に影響を及ぼしてしまう人もいます。李徴はそのタイプでしょう。結局詩人の夢は叶わず、地方の役所で働きますが、挫折感に堪え兼ねてある夜失踪します。このように多大な心的負荷をきっかけに突然日常生活を放棄し、失踪することを「遁走」と言います。この頃から李徴は非日常的な体験をします。川べりで「自分を招く声」を聞き、山林に入っていったのは恐らく幻聴に左右されたのでしょう。そして「虎になってしまった」のです。これは動物が憑依したと考える「獣化妄想」、または何かに変身したと考える「変身妄想」ではないでしょうか。「虎になってしまった」という妄想に思考を支配されているので、その後は誰とも会わず、山林で自閉的に過ごしています。挫折してもなお、妄想内容が、虫やネズミなどではなく虎というのは、誇大的自己像や自尊心の高さを反映しているのかもしれません。しかし、遁走するほどの心的負荷からの幻覚妄想状態は、決して軽くはない精神疾患を疑います。山林から連れ出して一刻も早く受診してもらうべきです。

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ほしの・がいねん/精神科医、ミュージシャン。総合病院に勤務する傍ら、星野概念実験室等で音楽活動も行う。

edit/
大池明日香

本記事は雑誌BRUTUS830号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は830号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

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こんにちは、星野道夫。(2016.08.16発行)

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