アート

蒼井優、星野道夫事務所へ。

No. 830(2016.08.16発行)
こんにちは、星野道夫。
写真保管用キャビネットを開けながら歓喜する蒼井さん。星野事務所のキャビネットは、動物別、シーン別に分類されていて、膨大な写真の中から見たい一枚をすぐに探し出せる。スタンドカラープルオーバー8,000円(シスターリメイク/シスター☎03・5456・9892)、ジャンパースカート92,000円(シクラス/ザ シークレットクローゼット神宮前☎03・5414・2996)

星野道夫の写真や言葉に何度も励まされているという蒼井優さん。氷上で寝転ぶシロクマや大地を駆け抜けるカリブー。アラスカの大自然を想像すれば、たとえ都会の生活に息詰まっても前向きな気持ちでいられるそう。そんな蒼井さんが憧れの星野作品とじかに触れ合う日がやってきた。

ここにあるものすべてが、私にとって宝物です。

千葉県市川市に着いて車のドアを開けると、気持ちの良い風がふうっと肩を抜けていった。星野道夫事務所はこの街にあるのだ。はやる気持ちを抑えられない、といった勢いで、同乗していた蒼井優さんがひょいと外へ飛び出した。東京からの道中で、「こんな日が来ることを待ち望んでいた」と熱っぽく語る姿が印象的だった。

10代の終わり頃、『旅をする木』と出会ってから、蒼井さんは事あるごとに星野道夫の言葉に支えられてきた。写真集の中で人間と同じようにくつろぐ野生動物を見ては、不思議と幸せな気持ちになり、いつしか心の中にアラスカの自然を内包するようになったという。目を閉じれば走るムースやカリブーが瞼に映る。それだからか、事務所に並ぶ写真保管用のキャビネットを前にしたとたん「ここにある写真、ぜんぶ見てもいいんですか」と、堰を切ったように言った。しかし時間には限りがある。蒼井さんは一枚でも多くの写真を見るために集中し始めた。ポジの入ったシートを速やかに選んではキャビネットから丁寧に引き抜き、ライトテーブルに置くとじっと写真に見入った。実にテンポ良く同じ動作を続ける姿を、奥さんの星野直子さんが笑顔で見守る。

日記帳の表紙には英語で“アラスカ大学野生動物管理学部”と記されていた。若き日の星野の真っすぐな思いが詰まった貴重な一冊。

「蒼井さん、見たいものは何でもリクエストしてくださいね。そう、夫が書き残した日記もあります」
 
直子さんはこれまであまり人に見せることのなかった星野道夫の日記を蒼井さんに手渡した。古い大学ノートの表紙には、太いペンで「Alaska」と書かれている。

星野道夫はアラスカ大学に通い始めた1978年から日記をつけていた。撮影に向けてのメモや、アラスカにやってきた自分の決意のようなもの、出会った人々との思い出などが綴られたノートは、まるで彼のエッセイそのものだ。

蒼井優が生まれた1985年8月に星野道夫はどんな活動をしていたのか。ヒントを求めて年表をめくる妻の直子さん(写真右)。

「直子さん、もしよかったら1985年の日記を見せていただけませんか。私の生まれ年なんです」 
 
しかしこの時期の星野はいくつもの撮影を抱えていた多忙な頃。蒼井さんが生まれた8月に関しては何の記述も残されていなかった。直子さんが年表で足跡を辿る。
「7月29日までは南東アラスカに行っていて、次が9月になっています。9月は北極圏の方にカリブーを撮りに行っていたようですが、8月は何をしていたんだか」
 
わかっているのは、この時期、星野はほとんどの時間をフィールドで過ごしていたということだ。星野道夫がカメラを片手にアラスカの大自然に身を置いていた夏、蒼井優が生まれた。
 
写真を見終えた蒼井さんはこう言った。「星野道夫さん、会えて良かった」。人と人は時間を超えて出会えるものなのかもしれない。本気でそう思えた瞬間だった。

星野の遺作となった『ノーザンライツ』の原稿。飛行機乗りの友人、シリアとジニーとの旅についての文章が今もそのまま残っている。

“こうじゃなきゃいけません”と言わない。星野さんの言葉は文学的です。

ライトテーブルでたくさんのポジと向き合い、密度の濃い時間を過ごした蒼井優さん。星野直子さんの案内で、星野道夫が通った喫茶店〈螢明舎〉まで足を運んだ。

蒼井優 
気づいたらあっというまに2時間経っていて驚きました。
星野直子 
またゆっくり遊びに来てくださいね。
蒼井 
私が初めて友人から星野道夫さんの本を教えてもらったのは10代の終わり頃でした。当時は飛行機の中で星野さんの本を開くのがすごく好きで。旅行の最中だというのに、強烈に「旅がしたい」と思いながら読んでいたんです。
直子 
よくわかります。
蒼井 
なんといっても星野さんの言葉の並べ方がすごく好きなんです。リズムも心地よくて。
直子 
『旅をする木』にはいくつか手紙のように書かれている文章がありますが、それがとても良かったって思っているんです。道夫さんはあのリズムそのままのしゃべり方でしたから。
蒼井 
星野さんの本にはいろんな文学の要素が詰まっていますよね。私は、シェイクスピア演劇にある「ここだけではない」という台詞が好きなんですが、星野さんが伝えてくれる言葉はそれに似ていると思うんです。生きる場所は今いるここだけではないということ。人間の豊かさ、広さ、脆さも教えてくれる。でも“こうじゃなきゃいけません”とは決して言わない。
直子 
蒼井さんは小さな頃からたくさん本を読んでいたんですか?
蒼井 
小学生の頃は父に「漫画を読むにはまだ早い」と言われて、山本有三を読んでいました。『路傍の石』だったかな。テレビ番組でたまたま見た「うまれてきたかいがない」という山本の言葉にどきっとして、百円玉を握りしめて書店に走ったんです。
直子 
道夫さんも読書家でしたし、読書家の蒼井さんだからこそ、夫の文章に出会ってくれたんだなぁと感じました。
蒼井 
星野さんの言葉を思い出すと、肩の力がスーッと抜けるんです。それでいて、やるぞって気持ちにもさせられる。星野さんが、体験したことを自己完結させる方じゃなくて、表に出してくれる方で良かった。私は、星野さんに出会っていなかったらもっと窮屈に生きていただろうと思うので。
直子 
私は、夫と22歳になったばっかりの頃に出会ったのかな。会う前に17歳も年が離れているって聞いて、その当時の私がイメージしたのは勤めていた会社の上司(笑)。会ったら少年みたいに話す人で、想像と全く違いました。
蒼井 
あはは。
直子 
お見合いでしたが、かしこまった場ではなかったので、アラスカのいろいろな話をしてくれて、その時に、見たことない世界が目の前にわあっと広がったんです。
蒼井 
お見合いで急にアラスカだなんて言われたら、普通の女性は「えっ」て思いますよね。
直子 
その頃の私は海外にも行ったことがなくて。道夫さんが「ずっと前から一緒にいたんじゃないか」と思わせてくれるような人だったので、自然に聞けました。
蒼井 
星野ファンとしては、“星野さんも普通の人間だ”というエピソードも知りたいです(笑)。
直子 
困ったというほどでもないのですが、意外におっちょこちょいな面がありました。空港から電話がきて、あれを忘れたから飛行機の何とか便で送ってほしいということが何回かあったかな。「あ、しまった」と言われると私も「あ」って(笑)。道夫さんらしいというか。本当に素朴な人でしたので。
蒼井 
星野さんには怒ったりするイメージがありません。
直子 
そうですね。私も怒られたことはないです。熊の撮影に同行した時にレンズを取ってと言われてオタオタしていたら、「早く!」と言われたことがあるくらい。その時もすぐに謝られました。おしゃべりではないんですが、冗談を言うのはすごく好きな人でしたよ。
蒼井 
写真を見ていてもユーモアのある方だって伝わってきます。
直子 
泣いている姿を見たこともありません。ブッシュ・パイロットの友人が亡くなった時、デッキに行って、一人で静かに座っていたことがありました。その時はもしかしたら泣いていたのかもしれないなって。
蒼井 
直子さんのお話を聞いて、ますます星野さんのことが好きになってしまいました!
直子 
そんなふうに言ってもらえたら私も嬉しいです。
蒼井 
私はこれまでに、たくさん友人に星野さんの本を紹介したりプレゼントしてきたりしました。東京で頑張っている人に読んでほしいと思うんです。
直子 
私も同じ気持ちです。
蒼井 
星野さんの本は“自分が見たこと、体験したことをただ書いた”という感じで、東京とアラスカを比べたりしないんですよね。だから「ここにいちゃいけない」って否定的な気持ちにさせないでくれる。でも一度はアラスカに行ってみたいと思わせてくれる。圧力がないのに圧倒されるんです。
直子 
蒼井さんみたいに感じてくれる方がいてくれて、道夫さんも喜ぶと思います。
蒼井 
私、これまでに想像力だけで何度もアラスカを体験してきましたが今夜は特別。夢で一晩かけて行ってきたいと思います(笑)。
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星野直子 (左)
1969年東京都生まれ。91年に星野道夫と出会い、93年結婚。94年長男の翔馬を出産。日本とアラスカを行き来しながら星野道夫事務所にて作品の管理を務める。著書に『星野道夫と見た風景』(新潮社)がある。

蒼井 優 (右)
1985年福岡県生まれ。女優。2016年は舞台『あわれ彼女は娼婦』出演。その後、9月17日より山下敦弘監督『オーバー・フェンス』、12月には松居大悟監督『アズミ・ハルコは行方不明』と主演映画の公開が続く。

photo/
Norio Kidera styling
text/
Naoko Yoshida
styling/
Mana Yamamoto hair&make
hair | make/
Eri Akamatsu (esper.)

本記事は雑誌BRUTUS830号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は830号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.830
こんにちは、星野道夫。(2016.08.16発行)

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