人生仕事

あんなに憧れた学校なのにうまいなって思うヤツはいなかった。|仲條正義

TOKYO80s

No. 773(2014.03.01発行)
なにしろラジオ好きなもので②
PHOTO / SHINGO WAKAGI

仲條正義(第一回/全四回)

長い話ですよ(笑)。私はね、新宿区になりましたが昔の淀橋区、鳴子坂下で生まれましてね。昭和8(1933)年生まれです。親父は千葉の農家の二男坊で、「手に職を」ってので深川で大工の修業して、当時の東京再開発でこのへんに来れば仕事もあるだろうっていうことでそこに一家を構えたわけです。戦争が始まって集団疎開があって、それで親父の里である千葉の飯岡ってとこに疎開しましてね。1年も経たないくらいに東京大空襲があって、母方の家とかみんな深川に固まってたんですが3分の2くらい死んじゃって。私は特徴のない子でね。あの、弱虫で、運動はあまりできないし(笑)。東京から持ってった水彩絵の具で絵を描いてました。新制中学に入ったときに四国に生まれた、絵の先生がいらして、「君、絵でも描かないかい?」と美術部に誘われました。当時はマッカーサーの命で、勉強、勉強っていうよりも、クラブ活動が奨励されたものですからね。その先生が良い方で、やかましく勉強しろなんて言う人じゃなかったんだけど、色々影響受けました。当時、田舎の中学校でもね、結構画集とかね、美術全集とか、そういうものがちゃんとそろってまして。それを見るのが楽しかったですね。『みづゑ』とか、『アトリエ』とか。そのうち先生が、君はやっぱり美術学校に行って、絵をやった方がいいよってね。けれど親が相変わらず大工ですから、そんな収入があるわけじゃないし、大体絵の学校出ても中学か高校の絵の先生になるしかないんですよね。それに油絵をしたいと思ったんだけど倍率がすごく高い。その頃には油絵出てもちょっとまずいだろうなあ、社会性はないと気づいてましたからどうしようかと見てると藝大、それもデザイン科がね、倍率が低いんですよ(笑)。国立だから月謝は安いしね。当時で年間1200円かな。入ったはいいんですけど、あんなに憧れた学校なのにうまいな、いいなと思うやつは3、4人で後はなんだかね。なんでこんなとこに来たのかなって思うくらいで、デザイン科のメインの先生が日展系の絵描きでね。はとバスのポスターとか頼まれるとその人が、エアブラシでかーって描いて。下手な人じゃないんだけど、なにも新しいものを感じない。安保の時代でしたが、我々はノンポリだったので芸術祭に作品1枚くらい描いて、後は、酒飲んでお祭り騒ぎでした。(続く)

仲條正義
なかじょう・まさよし/1933年生まれ。グラフィックデザイナー。2011年まで『花椿』AD。

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SHINGO WAKAGI
text/
KUNICHI NOMURA

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No.773
なにしろラジオ好きなもので②(2014.03.01発行)

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