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憧れのアメリカは、まだ遠い国でしたからね。|渡辺貞夫

TOKYO80s

No. 767(2013.11.15発行)
小津の入口
PHOTO / SHINGO WAKAGI

渡辺貞夫(第三回/全四回)

 箱根の富士屋ホテルの仕事のあと、横浜のクラブでリズムアンドブルーズを毎晩やったりもしました。黒人のGIが集まるハーレムというクラブで演奏してると、周りでGIが踊ったりするんです。それで、「貞夫いけー」
と言われて吹きながら歩きだすと皆が踊りながら後をついてくる(笑)。2階に上がったり下りたり、吹きながら移動してクラブの外に出ちゃったりね。ウィークエンドのジャムセッションを秋吉敏子さんも覗きに来てくれたりするうちに、彼女がバンド作る時に声をかけてくれたんです。そこでチャーリー・パーカーとビーバップに徹底的にハマりました。秋吉さんがバークリーに留学した後は僕がバンドリーダーになったんです。当時はバンドを作ると、必ずユニフォームを作るんです。エボニーという雑誌にアメリカのミュージシャンの写真が載っていて、あのジャケットがカッコいいとか靴がカッコいいとか真似しているとすぐ金がなくなる(笑)。みんなに給料払うと僕の手元には1500円ぐらいしか残らない、そんな時代でした。4年経って秋吉さんが帰ってきた時に、彼女の推薦でバークリーに行けるからと声をかけてくださって、ぜひとお願いしました。当時70万円くらい貯金ができていて、家を買おうかと思っていたところでした。川崎の広い丘陵地帯が100坪70万って言われてね。広いところで100坪を見せられても、これっぽっち? みたいな感じで(笑)。そんな時に秋吉さんから声がかかったのですが、あの当時片道のエアフィーが500ドル程度でした。持っていけるお金が200ドル。アメリカは遠い国でしたからね。ニューヨークに着くと秋吉さんが迎えに来てくれて、荷物を置いてすぐ連れていかれたのがファイヴスポットっていうジャズクラブ。チャールズ・ミンガスが演奏していて、そこで彼女はピアノを弾いていたんです。東洋人のサックス吹きということで僕は珍しがられて、「お前上がってこいっ」という感じで着いてすぐ、2晩続けて吹きました(笑)。それからバークリースクールに入りました。いやぁ嬉しかったですね。僕らが高校を出た頃に大学行けたのは1クラスで3、4人でしたから。それが憧れの、当時は世界で唯一ジャズを教えていたバークリースクールに入れたんですから。29歳の時ですからね、学校に行ったら、先生と間違えられたりもしました(笑)。(続く)

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渡辺貞夫
わたなべ・さだお/1933年生まれ。ジャズの枠にとどまらない独自の音楽世界を奏でる。

photo/
SHINGO WAKAGI
text/
KUNICHI NOMURA

本記事は雑誌BRUTUS767号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は767号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

No.767
小津の入口(2013.11.15発行)

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